022 「グランドジョラス北壁」小西政継

中央公論新社(中公文庫) 発行、1981年11月10日 初版発行、2002年4月25日 改版発行
あとがき 1971年7月1日 著者、 解説 植村直己、 1971年8月 山と渓谷社刊


小西政継(こにし まさつぐ)
 東京に生まれる。昭和32年、山岳同志会に入会。以後、42年、冬期マッターホルン北壁の、46年、冬期グランドジョラス北壁の登攀に成功する。さらに51年には、ヒマラヤ、ジャヌー北壁の初登攀を全員登頂と無酸素で飾る。59年、アウトドア用品の企画会社クリエイター9000を設立。平成8年9月30日、ネパールのマナスル登頂後、下山途中で遭難し、10月1日より消息を絶つ。著書に『マッターホルン北壁』『ジャヌー北壁』『山は晴天』『北壁の七人』など。

生への六日間 (第4章)
十二月二十九日


 やっと四十メートルのザイルがいっぱいにのびきった。この四十メートルを攀じるのに僕は何時間費やしたかわからなかったが、植村から一日の終わりを告げられた時、「一日でたったの四十メートルとは・・・・・・」僕は茫然とするのみであった。これまでこんなに僕を苦しめた登攀を知らない。
 一日かかって四十メートルしか登れなかった空しさと苛立たしさが、ぐっとこみ上げてきた。そして、「明日も吹雪で四十メートルしか進めなかったらどうしよう!」と一抹の不安が、冬の北壁への恐怖となって脳裡をかすめていった。
「悪かったな、一日確保させて申しわけない。今日はこのざまだ」
「いや、僕はただザイルを握っているだけですから」といってくれるが、この烈風と寒気の中で一日中動かずに確保していることは、さぞかし苦痛であったことだろう。
 僕と植村が仲間の待つ三角雪田のビバークサイトに下った時は、すでに暗闇につつまれていた。
 氷のテラスにどっかり坐りこむと、全身の力が一度に抜け去っていくような感じだった。だが仲間たちの「小西さん、ごくろうさま」という、不安をこれっぽっちも出さない笑顔が僕の気持ちを力強く支えてくれた。

 この夜、僕が胸の底から切に願ったことは、暖かい羽毛服にくるまって眠ることでもなかったし、美味しい食べ物を腹いっぱい貪ることでもなかった。暖かい羽毛服なら氷の鎧で我慢しよう。すききった腹ならミルク一杯で我慢しよう。
 この時の願いはただ一つ、明日の青空だった。凄まじい風雪と寒気、轟々と降り注ぐスノーシャワーから、一刻も早く会報されたかった。

十二月三十日

 北壁の九日目の朝。今日こそ晴天という希望も打ち砕かれ、風雪が咆哮する白い地獄だった。
・・・ 途中 省略 ・・・
 今日の作戦は昨日と同じだった。小西、今野で攻撃し、ほかの仲間たちは再び三角雪田のビバークサイトで停滞する。
 今日一日、僕の命を確保してくれる今野を伴い、烈風の中に躍り出た。もうもうたる雪煙に見えかくれしている大岩塔を眺めた。情け容赦なく僕をたたきつけた巨大な氷のクーロワールに、僕は激しい敵意を覚えた。旨の真底から闘志がむらむらとこみ上げてきた。
 僕は固定ザイルにユマールをはめこみ、ぐんぐん登る。三角雪田の氷壁を越え地獄のクーロワールのスノーシャワーを突っきり、昨夜の最高到達点に達した。
 今日これからの登攀で北壁は僕の肉体の一部を削りとるかもしれないが、不安も恐怖もまったく感じなかった。僕の心は研ぎすまされた刀剣のようにさえていた。
 うずまく風雪、降り注ぐスノーシャワー、垂直の危険な岩と氷を冷静にさばきながら僕は登る。これではまるで氷点下四十度の鯉の滝登りだ。生命の支点となるハーケンが打てないのはなんといっても辛いことだが、僕は頑張る、必死に攀じる。
「手が欲しいなら、指を差し出そう。足が欲しいのなら、くれてやろう。しかし、呪わしいお前は必ずたたきつぶしてやる!」
 もうこの登攀には、登攀自体の喜びや楽しみといったものはなくなっている。命を守るための真剣勝負であり、勇気と力、肉体と精神のすべてをふりしぼり、北壁と力ある限り敢然と闘うのだ。

2007年6月22日(金)
マッキンリーに登頂出来たY.Sさんが昨年登頂したグランドジョラスに関心が出てきて読み返してみたくなった。先に読んだ「長谷川恒男 虚空の登攀者」佐瀬稔著との読み比べも興味あるところ。
2002年6月4日(火)
今日、「グランドジョラス北壁」を読み終えました。厳しい冬期北壁登攀で凍傷の指を無くしたのは、壮絶でした。
2002年5月31日(金)
今日から小西政継著の「グランドジョラス北壁」中公文庫を読み始める。先に読んだ著者の「凍てる岩肌に魅せられて」「マッターホルン北壁」「山は晴天」と共に読みたかった著書である。先日、本屋で思いがけず発見し、楽しみにしていた1冊です。